斑尾だより

斑尾高原 田村ペンションのあるじが、思いつくまま書いています。

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古代の北信濃(8)

 柳沢の銅戈は、どこから伝わってきたのか・・・
 ネットでいろいろ調べていたのですが、1つ、面白い記事を見つけました。
 大阪湾型の銅戈と同じ特徴を持ったものが朝鮮半島でも見つかっているという記事です。(こんな事は、ちょっとでも弥生時代の青銅器の勉強をされている方には、常識中の常識なのでしょうが・・・・)
 そういえば・・・・・。シンポジウムの時のことを思い出しました。
 シンポジウムの最後に、質問を受け付ける時間があったのですが、そこで一人の質問者が、次のような質問をされました。
 「九州型、大阪湾型という分類の仕方は、よくないのではないか。それぞれ同じ特徴を持つものが、朝鮮半島で見つかっている。それらを含めて、分類するべきではないのか」という趣旨の質問でした。 (実はこの質問、具体的な地名などもあげられた、考古学用語もいっぱい出てくる、実に高等な質問だったのですが、無知な私にはよくわからなかったものですから、だいたいそういうことだろうと、私が勝手にこういうふうにまとめてしまいました。でも、たぶん趣旨自体は間違っていないと思うのですが・・・)
 九州型、大阪湾型というと、何か、そこで発生したような錯覚をしてしまします。
 しかし、 もともと、それらは中国、朝鮮半島にルーツを持つものなのです。
 「銅戈」が伝わってきただけでなく、九州型、大阪湾型呼ばれる形のそれぞれの特徴も、朝鮮半島から伝わって来たと考えられるわけです。
 そうならば、なにも、柳沢の銅戈も「九州から来た」、「近畿地方から来た」、などと考える必要はないのではないか・・・
 九州から柳沢まで日本海を伝わってきたと考えるなら、朝鮮半島から、直接来ることだって、可能です。
 朝鮮半島から九州に行くのも朝鮮半島から上越に来るのも、対馬海流を考えれば、そんなに大きな違いはない・・
 そんなふうに考えたら、次のようなこともあり得るのではないか・・
 朝鮮半島で別々の特徴を持った銅戈を祭器とする2つ(または、それ以上の)の集団があった。
 そのうちの一団(今、九州型と呼ばれる)が、まず九州に伝わった。その時、対馬海流に乗って、上越にもたどり着いた。か、または、九州から間接的に、上越にたどり着いた。
 その後、今大阪湾型と呼ばれるもう一方が海を渡ろうとしたとき、すでに九州地方では、前のものが、鋳型も作られて定着していた。
 そこで、それらは、関門海峡を通って瀬戸内海に入り、すでに九州型と呼ばれる銅戈が定着していた中国地方、四国をすり抜け、大阪湾までたどり着いたか、日本海を進んで、兵庫県、または京都府の北部に上陸し、南下して大阪湾あたりに定着した。
 一方同じ一団はやはり対馬海流にのり、上越にたどり着いた。
 そこには、九州型がすでに入っていたが、まだ、定着するには至ってなかった。そこで、大阪湾型が定着した・・。

 柳沢の銅戈のうち九州型だけが腐食が激しかったことから大胆に発想すれば、そんな想像も成り立つような気がします。
 
 そう考えてきたとき、気になってくるのは、あの、銅戈の特殊な埋納の方法です。 武器型青銅器は刃を立てて埋納するというやり方、銅戈とともに伝わってきたと考えられる方法です。

 そもそも、銅戈はなぜに埋納されたのでしょう。
 普通に考えれば、「使わなくなったから」ということでしょう。使わなくなったが、捨てしまうには尊すぎるので、丁寧に埋めた・・・。まあ、そういうことでしょう。(あるいは「隠した」という考え方もありますが)
 では、なぜに使わなくなったか。それは、文化(政治を含む)の劇的な変化があったからと考えるのが一般的なようです。
 それが何だったかを考えるのは、ちょっと話が広がりすぎますし、従来からいろいろな説があるようですので、ここでは、触れないことにさせていただきますが、しかし私が気になるのは、もしそうだとしたら、埋納されたのは、「1回だけだ」と言うことになるということです。
 
 くどくなりますが、この埋納の方法が、九州や近畿で見つかるものと同じと言うことは、銅戈が伝わったとき、その使い方や埋納の仕方も伝わったと考えるのは自然でしょう。
 しかし、「祭器」としてものが伝わるとき、その使い方はともかく、「いらなくなったら、こうして埋納しましょうね」といった、まるで現在の「PL法」みたいなことが伝わるのでしょうか。銅戈は消耗品ではないのですから。
 伝えた方が、実はもう使わなくなっていて、埋納もしてしまっていた。だから、その方法を伝えた・・・。
 これもかなり無理な考えでしょう。
 確かに、それを伝えた一団は、元の場所で他の文化を持つ一団に征服され、急いで自分たちの祭器を埋納して、一部は持ったまま逃げてきた。そして、まだ、その文化のない地区で、その祭器を伝え、「もし、異文化を持つものに征服されたときは、こうして埋めるんだよ」と伝えた・・・、という小説的な考え方ができないとは言えませんが、これもなんか、ちょっとうがった考えに過ぎるような気がします。
 もしかしたら、あの方法は、青銅器を一番きれいに、安全に保存しておくための方法だったのではないだろうか(現に、柳沢でも、大阪湾型は6本とも、きれいな形、色が2000年の間残っていたのですから)。私はそんなことを考えています。
 何か、樹液のようなものでも銅戈に塗って、あのように埋蔵するのが一番いい方法だったのではないか・・。
 あの方法は、使わなくなって最後に埋納されたのではなく、いつも、祭りの後、そう言う風に納められていたんじゃないだろうか・・・。
 そして、そのことに、九州型の1本だけが、腐食が激しかったことを考え合わせたら、柳沢に九州型が伝わったとき、まだ、銅戈の持つ意味、正しい保存の仕方、などは伝わってなかったのではないか(だから、腐食してしまった)・・大阪湾型が伝わって始めて、銅戈が、正確に祭器として埋納の方法も含めて伝わったのではないか・・
 実に「非科学的」で、実に素人っぽい、手前勝手な考えであることは承知ですが、なんとなく、そんな「夢想」をしてしまします。
 
ここまで書いてきまして、その後ネット上でいろいろ調べていましたら、こんな記事を見つけました。2007年のものです。
 「11月22日 銅戈の繰り返し埋納か?(読売新聞九州)」
福岡県小郡市の寺福童遺跡の調査で、2004年に銅戈9本が見つかった同じ穴から他の青銅器の破片が出土した。同市教委は、この破片を穴に出し入れする際に破損したほかの銅戈の一部とみており、埋納と掘り出しが繰り返されたものと判断している。繰り返し埋納であるとすれば全国で2例目。他の一例は、北九州市小倉南区の重留遺跡。
  
  私の想像した、埋納は「最初で最後の1回」ではなかったのではないかという考えは、それほど突飛なものではなかったのかも知れません。
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  1. 2008/04/09(水) 12:20:12|
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