斑尾だより

斑尾高原 田村ペンションのあるじが、思いつくまま書いています。

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古代の北信濃(7)

では、この柳沢の銅戈は、どこからどんなルートで伝わってきたのでしょうか。

 柳沢遺跡では、これまでのケースと異なり、九州型と、大阪湾型が一緒に見つかっているため、このことを研究するのは、大変重要なことである反面、大変難しい問題のようです。
 シンポジウムでも、時間がなかったせいもあるのですが、「今までの研究では、日本海側を伝わってきたのだろうと考えている」といったような説明にとどまっていました。(私が聞き漏らしていなければ・・・)

 こんな難しい問題を、私のような何も勉強していない「ど素人」が考えても仕方ないのですが、まあ、そこは持ち前の厚かましさで、「ど素人」なりの考えを少し、書いてみようかと思います。
 
 柳沢のことを考える前に、以前から見つかっていた九州型、大阪湾型はどうなのでしょう。
 九州型は直接朝鮮半島から渡ってきたと考えれば、問題ありません。朝鮮半島から直接伝わり、定着した。鋳型も発見されています。 中国地方、四国地方で出ているものも同じ九州型ですから、それが伝わったと考えればいいと思います。
 しかし、大阪湾型はどうでしょう。
 これに関して、ちょこっと調べただけですが、九州型が近畿地方に伝わって、大阪湾型に変化したと考えている方が多いようです。大阪でも、鋳型が見つかっています。
 しかし、その場合、モデルになった九州型が、大阪湾付近のどこかから、1本くらい見つかってもいいような気がしますし、それが全くないというのは、ちょっとふにおちません。
 まだ、見つかってないだけかも知れませんが、その仮説はちょっとおおざっぱすぎます。モデルになった九州型の銅戈は、たぶんきわめて少数だったでしょうから、見つからないというのも、うなずけないこともないのですが・・
 
 大阪湾型のことはひとまず、九州型が大阪型になったと考えるとして、それでは柳沢の場合はどうか・・・
 まず九州型は、九州から日本海経由で上越あたりに伝わり、そこから長野まで来た。
 上越地方で「石戈」が出土していることや、同じ栗林式土器も出土していることを考えれば、上越、北信濃は同じ弥生文化圏だったわけですから、それは、十分あり得る話です。
 昔は、今のように道路があるわけではありませんので、長距離を移動するには、陸路を行くより、海を渡る方がずっと楽だったはずです。
 しかも、日本列島の北側には、対馬海流が日本列島にそって北上しています。これに乗ってしまえば、九州から新潟あたりまでは、寝ててもいけるのではないか・・などと思います。
 
 九州型はこれでいいとして、大阪湾型はどうでしょう。
 近畿地方から柳沢までは、陸路をここまで伝わってきた。まあ、そう考えるのが普通でしょう。
 しかし、それにしては、銅戈が大阪湾周辺から柳沢まで、途中の経路上でどこからも全く出ていないのは、きわめて不自然です。
 ほぼ同時代のものといえる銅鐸は、その経路上の東海地方、松本、塩尻あたり出ているのですから、「銅戈はまだ、見つかっていないのだ」と考えるのも少し無理がありそうな気がします。
 
 九州→柳原はあり得そうなので、逆に、近畿→九州→(日本海)→柳沢という、いわば、近畿から九州への逆輸入ルートはどうでしょう。
 近畿のものが九州に戻り、九州から一緒に来た・・。これも、やっぱり、九州では大阪湾型が見つかっていないのですから、同じ事です。しかも、柳原では、大阪湾型が多いのですから、これはかなり無理があります。
 
 柳沢で銅戈が見つかった当初、それが大阪湾型とわかったときに、「弥生時代にはすでに、近畿地方と、信濃の地で、人物の交流があった証だ」と述べておられる、考古学者もおられたようですが、この銅戈の出現を持ってそのように解釈するのは、私はなんとなく、短絡的なような気がします。
 弥生時代の日本で、近畿地方(それも大阪湾周辺)と柳沢が、間をまったく飛ばして、陸路直接結びつくというのは、何とも、居心地の悪い結論のような気がするからです。
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  1. 2008/04/08(火) 09:15:08|
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