斑尾だより

斑尾高原 田村ペンションのあるじが、思いつくまま書いています。

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古代の北信濃(6)

前に、「遺物は動く」と書きました。
銅戈が見つかったからと言って、すぐに「だから長野には青銅器の文化があったのだ」と結論づけることはできません。
 どんな形で、どんなところから出土したか。そこに埋まったのはいつ頃のことなのか。そんなことを詳しく調べる必要があるわけです。
 柳沢の銅戈も、それが埋められていた場所をそっくり掘り出して調査されたのもそのためです。
 そしてその結果、これらの銅戈と銅鐸(一部)は、間違いなく、弥生中期後半、ないしは後期始めに、埋められたものだという結論が出ました。
 またさらに重要なのは、どのように埋まっていたかということです。
 まあ、言ってみれば、捨てられて道ばたに落ちていたものが、長い間に土に埋まったのか、それともちゃんと人の手によって、埋められたものかと言ったところでしょうか。前者と後者では、自ずから、そのものの元々の意味や、どういう扱いを受けていたかと言ったことが違ってくるでしょうから。

 柳沢遺跡の銅戈、銅鐸は捨てられたものが埋まっていたのではなくて、丁寧に人の手で埋められていました。(考古学的には「埋納」というそうです) 
 その埋め方は、私のような素人が考えれば、非常に特殊なものでした。
 銅戈は、平らなものです。ですから、まあ、私がそれを埋めるとすれば、穴を掘って、一枚ずつ、ぺたぺたと平たくおいていくだろうと思います。それが一番楽ですし、当たり前だと思います。
 しかし、柳沢の銅戈は違いました。

出土したときの銅戈
<<出土したときの銅戈。小さくてよくわからないのですが、真ん中あたりに、それらしいものが見えませんでしょうか・・・>>

  上の写真は、出土したときの、まだ半分埋まっている状態の写真なのですが、ちょっと小さくて、よくわかりませんね・・・。もっとはっきり写っている写真を見ていただければすぐにわかるのですが、7本の銅戈は、全て刃を立てた状態で埋められていました。説明が難しいのですが、普通にペタンと置いたものを、ぐいと90度刃を起こした状態です。
 7本の銅戈は、それぞれ長さが違うのですが、両端に長いものを、それらの間に短いものを、銅戈の先端の方向を全てそろえ、整然と埋められていました。
 埋められていた穴の中の土を調査した結果、これらの銅戈は、どのようにして埋められたかが、わかりました。
 まず、全部が入る穴を掘ります。その次に銅戈を立てて置くための土のマウンドを作ります。そこに銅戈を刃を立てた状態で置いていきます。その後、銅戈が倒れないように、銅戈と銅戈の間に土を入れていきます。まあ、おおざっぱに言えば、そういうやり方です。
 なぜに、そんな面倒なやり方で埋めたのか・・・。
 この埋め方、私のような素人は、「へ~、なんでわざわざそんな面倒なことを・・・」と驚きますが、実は考古学者の方には、そのこと自体は何の驚きでもなかったのです。
 
 それは、銅戈がこれまで出土した、九州や近畿地区でも、多くがそのような形で埋納されていたからです。
これは銅戈だけではなく、剣や矛などの武器型青銅器の多くが、同じように刃を立てた形で埋納されていたようです。従来から、弥生時代に青銅器文化を持っていたと言われていた地域、そこでの、武器型青銅器の一般的な埋納の方法だったのです。
 何でそういう面倒な埋め方をするか、は又別に調べるとして、ここで重要なことは、柳沢の銅戈は、その意味もわからない人たちが、たまたま持っていたものを埋めただけではないということです。
 ちゃんと、九州などの従来から「銅戈を祭器として使っていた」といわれてきた人たちと同じレベルで、銅戈の埋納の仕方を知っていた訳ですから、当然同じレベルで使っていたと、推測できるからです。
 このことが、この北信濃の弥生時代にも、ちゃんと九州や近畿地方と同じ青銅器の文化があったということを語っているのです。
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  1. 2008/04/05(土) 22:13:34|
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