斑尾だより

斑尾高原 田村ペンションのあるじが、思いつくまま書いています。

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古代の北信濃(4)

柳沢遺跡での、銅戈の発見がなぜに考古学者達を驚かせたのでしょう。

 日本で出土する青銅器は、銅剣、銅矛、銅戈などの武器型青銅器と、銅鐸の大きく2つに分けられることができると思います。
 それぞれ、元々の使用目的が違うものですし、それぞれの出土分布が特徴を持っているからです。おおざっぱに言えば、武器型は、北九州を中心に分布し、銅鐸は近畿道地方を中心に分布しています。
 銅鐸に関して、東は静岡県あたりまでは比較的多数出土し、さらに東では長野県松本市、塩尻市で、各1個、千葉県で2個、栃木県で1個などの出土があるようですが、武器型の青銅器は近畿地方より東ではほとんど出土していませんでした。銅鐸にしても武器型にしても、東日本では例外的なものにとどまっていました。 
 このため、東日本の弥生文化は、西日本のそれと違い、「青銅器を持たない弥生文化だった」というのが定説だったのです。
 青銅器文化は、弥生時代に大陸から、直接かまたは、朝鮮半島を通って、日本に伝わったものですから、当然、一番近い九州に上陸し、それから東へと伝わってくる。それがある程度文化の進んでいたと思われる(あんまり根拠がないような気がしますが)近畿まであたりで止まってしまうか、せいぜい東海地方止まりになっても、それは仕方がない、といった考え方だったのではないでしょうか。

 「銅戈」もこれまで、北九州、四国、中国地方、大阪を中心とする近畿地方の一部でしか、出土していませんでした。
 それが、なぜか突然、遠く離れた、北信の柳沢遺跡で、大量7本も出土したのです。
 これは、考古学者を驚かすには、十分でした。青銅器文化にたいする定説は覆ってしまったのです。

 しかし、実は、それ以前に長野県には1本、銅戈が存在していました。
大町市平西海ノ口にある上諏訪神社に、昔から保存されていたのだそうです。
この銅戈は江戸時代に見つかったと言われている以外、どこから、どのようにその神社にもたらされたか、記録もないまま、保管されていました。(今は、大町市文化財センターで保管されています)
そのため、研究の対象にならなかったのか、考古学上は「日本の東端の銅戈」と呼ばれることはなかったようです。もちろん、「銅戈の北限」として紹介されている例はありますが。
 確かに、「遺物」は動かせるものですから、どこか遠くで出土したものが、「珍品」として後代になって運ばれてくることもありうるわけですから、今、そこにあるから、昔からそこにあったとは言い切れません。それは仕方のないことです。
 (現に、私が昔発掘作業をしていた「貫の木遺跡」で出土したナイフ型石器1個が、今は、東京国立博物館に収められているようですので、遺物は動きます。(笑)

 しかしその他、長野県では、以前から、石で作った戈、「石戈」が多数出土しています。新潟県、群馬県でも数点、出土しているようです。これが、かなり精巧に銅戈をコピーしたものなのです。
 先日のシンポジウムで「負け惜しみではありませんが」と前置きして「大町のこと、石戈のことなどから考えれば、長野県で銅戈が出ても不思議ではないと言う気持ちはどこかにありました」と、発言された考古学者もいらっしゃいました。半分冗談交じりに。

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  1. 2008/04/03(木) 09:10:09|
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