斑尾だより

斑尾高原 田村ペンションのあるじが、思いつくまま書いています。

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飯山菜の花公園

5月3日から5日の間「菜の花祭り」が行われる、飯山菜の花公園に、今年も行ってみました。
菜の花はちょうど見頃。一面の「黄色、黄色」です。

菜の花畑の上に鯉幟が泳いでいます。
鯉幟


お店もたくさん出ていて、お祭りの雰囲気は盛り上がっています。
お店


菜の花のむこうに千曲川。その向こうに斑尾山がきれいに見えていました。ソメイヨシノはもうほとんど散ってしまっていましたが、なんという名前でしょう。1本桜の古木がちょうど満開でした。
千曲川と斑尾山


うどんやソフトクリームを売っているお店です。
うどんとソフトクリーム


菜の花公園は、唱歌「朧月夜」のモデルになった場所です。歌碑が立っていました。
「朧月夜」歌碑


地元のケーブルテレビ局でしょうか、訪れていたカップルにインタビューしていました。
ケーブルテレビ局
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  1. 2008/04/29(火) 19:41:48|
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古代の北信濃(13) 根塚遺跡

先週、木島平村まで行く用事ができました。
木島平村は、飯山市のすぐ東隣、斑尾からでも30分位で行くことができます。
おいしいお米が取れるところで、「木島平米」というブランドにもなっています。
用事が早く終わったので、先日「通りすがりの昆虫屋」さんから、コメントでご指摘いただいた、根塚遺跡のことを調べてきました。

木島平村根塚遺跡は、平成8年、大区画圃場(水田)整備に先立ち、記録保存のため、調査されました。根津遺跡は石を積み上げた、円墳を中心とする縄文時代から、平安時代までの遺物が出土する遺跡です。
 そして、調査を開始してすぐ、弥生後期に属する2振りの鉄剣が発見されたのです。
これは、今回の柳原の銅戈の発見にも勝るとも劣らない驚きだったようです。
そのうちの1振りは柄頭に1つ、柄尻に2つの渦巻き文があり、「渦巻文装飾付鉄剣」と命名されました。

 現在、実物は、展示されていないのですが、レプリカが木島平村文化センター(だったよなあ・・・ちょっと名前を忘れてしまいました。)で、展示されています。
 写真を写したのですが、非常に写しづらい形で展示されているため、こんな写真しか撮れませんでした。

渦巻文装飾付鉄剣
<<最初に見つかった二振り。下が渦巻文付鉄剣文。全体を写すのが難しかったので、渦巻文を中心に写しました。>>

後の調査で、さらに鉄剣一振りが見つかり、合計3振りになりました。

根塚古墳鉄剣
<<後で見つかった鉄剣>>

それらはその後の研究で、朝鮮半島の南部、当時の加耶地区からもたらされたものであると認定されました。
このことで、弥生時代後期から末期(3世紀)、この地方と朝鮮半島の間で、直接交流があったのだろうと考えられるようになりました。

この発見以来、根塚遺跡は、何年にもわたって、発掘調査されたのですが、平成10年の発掘で、さらに驚くものが発見されました。
 それは、同じく弥生末期のものと思われる、「大」という文字が刻まれた土器の破片でした。 (刻書土器と呼ばれています)
刻書土器
 <<これは「写真」をデジカメで写したものです。レプリカが、上の鉄剣の写真に小さく写っています)>>

  それまで、西日本では2~3世紀のものと思われる刻書土器は、いくつか発見されていたのですが、東日本で文字の刻まれたものは、千葉県稲荷台1号墳の鉄剣、埼玉県稲荷山の鉄剣(いずれも5世紀中半?)が、見つかっているだけで、それらが東日本最古と思われていました。
 このことから、文字は、九州から近畿を通じて、東日本に伝わったと考えられていました。
 しかし、この根塚遺跡の刻書土器の文字は、その特徴が、鉄剣と同じく、朝鮮半島の加耶地方のものと同じであり、やはり、朝鮮半島から直接伝わったもであると考えられるようになりました。

 東日本には、九州、近畿経由ではなく、独自のルートで文字や、鉄剣を初めとする、いろいろな文化が伝わってきた可能性が大きくなってきたと、当時の新聞には書かれています。
 このことは、柳沢遺跡の「銅戈」を考えれば、当然のことといえるでしょう。この、鉄剣、刻書文字をさかのぼることおそらく300年くらい前に、すでに朝鮮半島から「銅戈」が直接伝えられたと、考えられるのですから。
 
 弥生末期、3世紀、それは、あの、「邪馬台国」の卑弥呼の時代です。
「魏志倭人伝」に、生き生きと描かれている、「邪馬台国」。それと同じ時代、この北信濃に、その「邪馬台国」と同じような文化を持った人々が住んでいたと考えて、間違いないと思います。
 日本海を媒介とし、朝鮮半島と行き来する、古来の「越の国」の末裔たち・・。
 そんなイメージが私の頭の中に、浮かんできました。

 帰り道、根塚古墳に行ってみました。
 広く整備された水田の中に、ぽつんとひときわ高くなったところがそれでした。一人の老人が野蒜、蕗の薹などの山菜を採っておられました。
  
根塚遺跡


鉄剣が発見された石組み
 <<古墳頂上。中央の石積みのあたりから、鉄剣が発掘されました>>

 南に高社山、西に斑尾山が望める、陽当たりのよい、丘です。

西に望む斑尾山
<<西に望む斑尾山>>

 ここで、卑弥呼が活躍したあの時代、「渦巻文装飾付鉄剣」を腰に佩いた北信濃の王者が、夕日の沈む斑尾山を見ていたのだろうと考えたら、ちょっと、感慨深いものがありました。
 
  1. 2008/04/22(火) 23:17:04|
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古代の北信濃(12)

 神話をもう1つ書いてみます。
 
 「出雲風土記」という古代資料があります。
 西暦713年に元明天皇の命で、各地の風土記が作られ、出雲風土記も、733年に完成したと言われています。現存する各地の「風土記」の中で、もっとも完本に近いものです。
 
 その中に、「国引き神話」と呼ばれるものがあります。
詳しいことは、ウィキペディアの「国引き神話」を見て下さい。ここで書いても、丸ごと引用になってしまいそうで・・・(^^;
 簡単にまとめてしまうと、ある神様が、出雲は狭くて未完成な国なので、他の国の余った土地に綱をかけ、を引っぱってきて領土を拡げたという神話です。
 その引っぱってきた土地というのが、「新羅の岬」、「北門の佐伎国」、「北門の良波の国」、「越国の都都」の4個所になっています。
 ここでもやはり、「越の国」が登場します。

 神話なんてものは、所詮嘘っぱち。後世の、例えば「風土記」を編纂した人の作り話だと言ってしまえばそれまでですが、これも、前に書きました「古田武彦さ」んの論なのですが、神話にも、何か一定の歴史的な事実があって、それを語り伝えるとき、文字を持たない人々が覚えやすいように、どんどん面白い物語に変わっていったのではないかということ。私もそう思っています。
 この神話について、古田武彦さんは「盗まれた神話」の中で、大変面白い(といっては失礼ですが)考えを述べられているのですが、それはここでは省かせていただきます。とっても膨大な理論ですので、書ききれません。

 ただ、この神話ができたとき、出雲の国と、越の国は交流があったということだけは間違いないだろうと思います。「出雲は、出雲だけの狭い国だけではなく、ここも出雲と同じなんだよ」と、交流のあった土地を「国引き」という形で伝えていったのではないかと思います。

 それでは、この神話と、「古事記」「日本書紀」の「国生み神話」と、どちらが古い伝承なのでしょう。
 まず、この神話には、九州が出てきません。
 この神話ができたとき、出雲の人々は、九州を重視していない。もしかしたら、知らなかった。少なくとも、交流はなかったのではないか・・。まさか、九州には、綱をかける適当な岬がなかった・・ということではないでしょう。

 それでは、「国生み神話」の方はどうでしょう。「古事記」の国生み神話は、「州」を「島」に、すっかり変えてしまっているので、当然、出雲はおろか、越の国も出てきません。
 「日本書紀」ではどうでしょう。ここにも出雲という地名は出てきません。
 しかし、「大州」という地名が出てきます。これは、従来から日本書紀研究者を悩ませた地名です。「州」を「シマ」と読んでいましたから、「大島」になるわけです。
 日本で、「大島」と呼ばれる島は山ほどあります。九州あたりにもたくさんあるようです。ですから、悩んだ。
 しかし、「州」を、クニと読めば、「オオクニ」となります。
 これは、なじみのある名前、「出雲の大国主命」の「オオクニ」ではないか・・・・と。実はこれは、私独自の発想ではありません。前出、古田武彦さんの「盗まれた神話」に書かれていたことです。
 私は、これを読んだとき、目からウロコでした。きっとそうに違いないと思います。出雲は「国生み神話」が生まれた頃は「オオクニ」と呼ばれていたのではないかと思います。

 そう考えれば、「国生み神話」ができたとき、出雲は認識されていた。交流があった。
 しかし、出雲の「国引き神話」では、九州は出てこない・・・。ということは、「国引き神話」の方が古いのではないか・・・
 このことに関して、古田武彦さんは「盗まれた神話」の中で、(何度も引かせてもらってすみません)次のような考えを書かれています。 
 「国生み」は「矛」から国が生まれるという「武器」の発想。「国引き」は、綱をかけて引き寄せるという「綱」の発想、これはたぶん、漁民の発想だろう。したがって、「国生み」は弥生時代。「国引き」は、縄文時代に生まれたものであろう・・・。
 私も、そうだと思っています。やはり、越の国は、縄文時代から、他の地域からも認識された、進んだ土地だったのだと思います。
 
 ここまで書いてきまして、まだまだ、気になっていること、書きたいことは山ほどあるのですが、そろそろ「手持ちのネタ」だけでは、書けないところまで来てしまいました。
 よって、「古代の北信濃」、しばらくお休みです。
 
 最後のほうは「柳沢」を離れ、時代をさかのぼっていってしまいましたが、これからは、柳沢以後のことを調べてみたいと思っています。
 だいぶ、時間がかかると思いますが、とぎれとぎれでも、続きを書きたいと思っています。その時はどうぞよろしく~。
 
 
  1. 2008/04/14(月) 21:05:25|
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古代の北信濃(11)

昨日、「国生み神話」が生まれたのは、縄文時代のことだっただろうと書きました。
 その後、少し調べたいことがあって、古田武彦氏の「盗まれた神話」をもう一度、読み返してみました。かなり前に読んだものなので、記憶が曖昧です。
 その中で、「国生み神話が生まれたのは弥生時代だろう」と書かれているのを見つけました。
 氏がそう考えられるのは、国生み神話が、「矛」にまつわる神話だからです。

 「古事記」でも、「日本書紀」でも、まだ大地が渾沌としているとき、イザナギ、イザナミが、天浮橋に立って、天沼矛で大地をかき混ぜた。矛から滴り落ちたものが、積もって島になった。その島で、国生みを行ったとされています。
 「銅矛」それこそ、北九州を中心とする、弥生時代の遺物の王者といえるものです。「なるほど、そうかもしれない」と思いました。
 しかし、私の知識では、弥生時代は、せいぜいBC400年くらいから。そんなに「新しい」神話なのかなあ、と、ちょっと納得できず、もう一度弥生時代について調べてみました。(ウィキペディアですが・・(笑)
 そこで知ったのですが、最近いろいろ研究が進み、弥生時代がどんどん前にさかのぼっていっている、そして、何を持って縄文時代と弥生時代のさかいとするかすら、議論され始めていると言うことです。(私は単純に「土器」の違いと、いまだに思っていました)
 そして、今は、「水稲耕作が行われた」というのを境にしようという意見が大半を占めるようになったと言うことです。
 そこで又、新たに知ったことがあります。それは、縄文時代には、「戦争」のあとが見られない、「戦争」の痕跡が見られるのは「弥生時代」になってからなのだそうです。(そんなことも知らなかったのかと言われそうですね・・)
 そうだとすれば、古田武彦氏の言われるとおり、「矛」の文化は、弥生時代の文化です。戦いのなかった、縄文時代には、「矛」は無用でしょうから。
 私は、考えを改めなければなりません。

それにしても、「水稲耕作」が始まって、戦争が始まったということ。
 水稲耕作が、革命的に食物の生産量が増大した証拠なのでしょう。大量の食料を保存しなければならない。良質の土地も欲しくなる。それら奪い合うようになる・・。そんな構図だったのでしょう。
 それがいまだに続いているのかと思うと、縄文時代に生まれたかったと思ってしまいます。ずいぶん簡単なまとめ方ですが・・・(^^;
  1. 2008/04/12(土) 19:33:20|
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古代の北信濃(10)

「古事記」「日本書紀」に「国生み神話」と呼ばれる説話があります。
その内容は 「古事記」と「日本書紀」では微妙に違うのですが、基本的にはイザナギ・イザナミの2柱の神様が結婚し、国を生むという「国土創生譚」です。
 「大和朝廷」の歴史である2つの書物の、ほぼ冒頭の部分といってもいいでしょう。ここから国が始まるわけですから。
 ここで、生まれる国、それも、「古事記」と「日本書紀」では違っています。
 古事記では、淡道之穂之狭別島、伊豫之二名島、隱伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島、大倭豐秋津島の八個の「島」とされています。
 一方、日本書紀(本文)では、大日本豐秋津洲、伊豫二名洲、筑紫洲、億岐洲・佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の八個の「州」とされています。
 まず、この2つで大きく違っているのは、古事記は「島」と書き、日本書紀では「州」と書いていることです。
 日本書紀には本文の他に「一書に曰く」という形で、日本書紀編纂時に存在した他の歴史書を、書名を伏せたまま引用しています。この、国生みの部分にはその「一書」が5個も引用され、それぞれ内容が少しずつ違うのですが「州」に関しては、全て同じです。

 なんで、こんなに違うのか。
 まず、「古事記」の島名。これは読んでみると、今でも、「ああ、あの島のことだ」とわかる島の名前なのです。(筑紫島→九州、伊豫二名洲→四国、大倭豐秋津島→本州)
 いわゆる「大八島」なのです。
 しかし、日本書紀のほうはどうでしょう。もちろん、「州」を「シマ」と読み替えて、そのまま「島」のものもあります。しかし、とても、島に思えないものもあります。
 このことは昔から研究者を悩ませたようで、「昔は島だった」など無理な解釈をしたり、「日本書紀編者の間違い」ですませたりしていたようです。
 確かに、「国生み」は「国土創生」ですから、具体的な「島」を生んでくれた方がわかりがいい。ですから、古来から、この国生み神話は「古事記」の内容をもって正しいとされていたようです。
 このことに関して古田武彦氏はその著書「盗まれた神話」の中で、明快に、解析されています。
 「古事記」「日本書紀」で書かれている地名に具体的に現在の地名を比定し、結論として、日本書紀の記述「州」が元々の伝承で、古事記は「国生み神話」らしく「島」になおした。と同時に、島と思えないものは、島と思えるものに変えたと、考えられています。
 私も、そうだと思っています。元々の伝承は「州」だったのでしょう。「州」という字は、どこから読んでも「島」ではありません。元々の伝承はおそらく、物理的な「島」ではなく、その頃なんと呼ばれていたかわかりませんが、ムラ(村)とかクニ(国)とかの集合単位を表す呼称だったのではないかと思います。
 
 前置きが長くなりましたが、ここで問題なのは、「越州」です。
 「日本書紀本文」他、5つの「一書」合わせて6個のうち本文を含めて4個に「越州」が書かれています。元々の伝承にはおそらくこの「越州」があったのでしょう。
 これが「越の国」であることは、たぶん間違いないでしょう。そう考えておられる研究者も多数おられます。現在の福井県から新潟県に至る、いわゆる越前、越中、越後の国あたりでしょう。
  「国生み神話」がどこの地区で生まれたか、この神話の中心地はどこだったのか、それは、私にはわかりません。しかし、「大和朝廷の歴史」の最初の部分で、いわば「日本が生まれた」とされるときに、すでに「越の国」が他の7ヶ所と一緒に日本の一部として、認識されていた。そして、他の7ヶ所と交流もあった。
先ほど書きました「盗まれた神話」を読んでから、私はそう考えていました。

 そして、今回の柳沢遺跡に関連して、上越地方と北信濃は弥生時代、同じ文化圏だったことを知りました。
 柳沢遺跡は、縄文時代中期から弥生時代まで続く、古い遺跡です。これらのことから、私は、きっと、この国生み神話の「越州」に北信濃も含まれていたのだろうと思います。
 「国生み神話」が年代的に、いつ頃生まれたものなのか、全く特定することはできません。しかし、紀元をさかのぼること、かなり前のことであったことは推測できます。たぶんそれは、弥生時代より古い、縄文時代のことだったのでしょう。その頃から、この北信濃の地は、「日本の一部」として、政治地図に登場していたのだと、思います。
  1. 2008/04/11(金) 18:00:01|
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古代の北信濃(9)

これまでの研究で、柳沢の銅戈は、製造されたのが弥生時代中期前半(約2200年前?)、埋められたのが(私の考えでは最後に埋められた)弥生時代中期後半ないしは、後期初め(約2000年前)とされています。
 銅戈が祭器として使われていたのはBC200年くらいからAD0年前後くらいの間ということになります。
 その頃の日本は歴史的にはどんな時代だったのでしょう。
 中国の史書から見れば「漢書 地理誌」に「夫れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来献す、と云う。」と、書かれた、ちょうどその頃になります。
 漢書を編纂した班固は西暦32年 - 92年に生きた人です。その頃の「倭人」は中国との交流もあり、中国の知識人には、よく知られた存在であったことが伺えます。
 志賀島で江戸時代に見つかった「漢委奴國王」の金印、あれを後漢の光武帝が授与した年が西暦57年ですから(後漢書東夷伝)その頃の九州は、かなり文化的に進んでいたと考えられます。
 又、あの邪馬台国の卑弥呼が登場するよりさらに約200年古い時代になります。

 その頃の日本のことが、もうすこし詳細にわかる資料はないのだろうか・・。
 残念ながら、現存する日本の古代資料で、その頃の年代を特定できるものはありません。
 「古事記」「日本書紀」に書かれたことで、年代的に特定できるとされているのは、古くても5世紀くらいのことで、それも、諸説有り、不確かというものがほとんどのようです。
 2000年前の日本が、政治地図的にはどうなっていたのか。九州では中国と交流があったことはわかっているのですが、それ以外の地域はどうだったのか。 
 同じように青銅器文化を持っていた地域がこの北信濃地方にもあったことが、今回わかったわけですが、それでは、九州など他の地域との関係などはどうなっていたのか・・・・
 日本の古代資料では、それらのことは全くうかがい知ることができません。
 例えば、「志賀島の金印」すら、「古事記」「日本書紀」には登場しないのですから・・
 
 さらに、日本の古代資料で不可思議なのは、「銅鐸」のことです。
 近畿地方を中心にあれほど大量に出土しており、九州、中国、四国地方で出土する銅矛、銅剣と並んで弥生時代青銅器の双璧をなすものなのですが、この銅鐸についても「古事記」「日本書紀」には一言も書かれていないのです。
 「古事記」「日本書紀」は、いわば「大和朝廷の歴史」です。その舞台となる奈良、大阪あたりで銅鐸が出土しないのならともかく、そこはまさに、銅鐸圏まっただ中なのです。それが、一言も触れられていない・・。
 きっと、そこにはとてつもなく、重大な理由があるのでしょうが、私などには、考えようもありません。
 ただ、このような状態ですから、2000年前の考古学的検証と古代史をすりあわせていくことは、とても難しい問題なのだろうと思います。
 
 (なんか、文章があやしくなってきました・・・・。飲みながら書いてるわけじゃないのですが)
 

  1. 2008/04/10(木) 17:01:18|
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古代の北信濃(8)

 柳沢の銅戈は、どこから伝わってきたのか・・・
 ネットでいろいろ調べていたのですが、1つ、面白い記事を見つけました。
 大阪湾型の銅戈と同じ特徴を持ったものが朝鮮半島でも見つかっているという記事です。(こんな事は、ちょっとでも弥生時代の青銅器の勉強をされている方には、常識中の常識なのでしょうが・・・・)
 そういえば・・・・・。シンポジウムの時のことを思い出しました。
 シンポジウムの最後に、質問を受け付ける時間があったのですが、そこで一人の質問者が、次のような質問をされました。
 「九州型、大阪湾型という分類の仕方は、よくないのではないか。それぞれ同じ特徴を持つものが、朝鮮半島で見つかっている。それらを含めて、分類するべきではないのか」という趣旨の質問でした。 (実はこの質問、具体的な地名などもあげられた、考古学用語もいっぱい出てくる、実に高等な質問だったのですが、無知な私にはよくわからなかったものですから、だいたいそういうことだろうと、私が勝手にこういうふうにまとめてしまいました。でも、たぶん趣旨自体は間違っていないと思うのですが・・・)
 九州型、大阪湾型というと、何か、そこで発生したような錯覚をしてしまします。
 しかし、 もともと、それらは中国、朝鮮半島にルーツを持つものなのです。
 「銅戈」が伝わってきただけでなく、九州型、大阪湾型呼ばれる形のそれぞれの特徴も、朝鮮半島から伝わって来たと考えられるわけです。
 そうならば、なにも、柳沢の銅戈も「九州から来た」、「近畿地方から来た」、などと考える必要はないのではないか・・・
 九州から柳沢まで日本海を伝わってきたと考えるなら、朝鮮半島から、直接来ることだって、可能です。
 朝鮮半島から九州に行くのも朝鮮半島から上越に来るのも、対馬海流を考えれば、そんなに大きな違いはない・・
 そんなふうに考えたら、次のようなこともあり得るのではないか・・
 朝鮮半島で別々の特徴を持った銅戈を祭器とする2つ(または、それ以上の)の集団があった。
 そのうちの一団(今、九州型と呼ばれる)が、まず九州に伝わった。その時、対馬海流に乗って、上越にもたどり着いた。か、または、九州から間接的に、上越にたどり着いた。
 その後、今大阪湾型と呼ばれるもう一方が海を渡ろうとしたとき、すでに九州地方では、前のものが、鋳型も作られて定着していた。
 そこで、それらは、関門海峡を通って瀬戸内海に入り、すでに九州型と呼ばれる銅戈が定着していた中国地方、四国をすり抜け、大阪湾までたどり着いたか、日本海を進んで、兵庫県、または京都府の北部に上陸し、南下して大阪湾あたりに定着した。
 一方同じ一団はやはり対馬海流にのり、上越にたどり着いた。
 そこには、九州型がすでに入っていたが、まだ、定着するには至ってなかった。そこで、大阪湾型が定着した・・。

 柳沢の銅戈のうち九州型だけが腐食が激しかったことから大胆に発想すれば、そんな想像も成り立つような気がします。
 
 そう考えてきたとき、気になってくるのは、あの、銅戈の特殊な埋納の方法です。 武器型青銅器は刃を立てて埋納するというやり方、銅戈とともに伝わってきたと考えられる方法です。

 そもそも、銅戈はなぜに埋納されたのでしょう。
 普通に考えれば、「使わなくなったから」ということでしょう。使わなくなったが、捨てしまうには尊すぎるので、丁寧に埋めた・・・。まあ、そういうことでしょう。(あるいは「隠した」という考え方もありますが)
 では、なぜに使わなくなったか。それは、文化(政治を含む)の劇的な変化があったからと考えるのが一般的なようです。
 それが何だったかを考えるのは、ちょっと話が広がりすぎますし、従来からいろいろな説があるようですので、ここでは、触れないことにさせていただきますが、しかし私が気になるのは、もしそうだとしたら、埋納されたのは、「1回だけだ」と言うことになるということです。
 
 くどくなりますが、この埋納の方法が、九州や近畿で見つかるものと同じと言うことは、銅戈が伝わったとき、その使い方や埋納の仕方も伝わったと考えるのは自然でしょう。
 しかし、「祭器」としてものが伝わるとき、その使い方はともかく、「いらなくなったら、こうして埋納しましょうね」といった、まるで現在の「PL法」みたいなことが伝わるのでしょうか。銅戈は消耗品ではないのですから。
 伝えた方が、実はもう使わなくなっていて、埋納もしてしまっていた。だから、その方法を伝えた・・・。
 これもかなり無理な考えでしょう。
 確かに、それを伝えた一団は、元の場所で他の文化を持つ一団に征服され、急いで自分たちの祭器を埋納して、一部は持ったまま逃げてきた。そして、まだ、その文化のない地区で、その祭器を伝え、「もし、異文化を持つものに征服されたときは、こうして埋めるんだよ」と伝えた・・・、という小説的な考え方ができないとは言えませんが、これもなんか、ちょっとうがった考えに過ぎるような気がします。
 もしかしたら、あの方法は、青銅器を一番きれいに、安全に保存しておくための方法だったのではないだろうか(現に、柳沢でも、大阪湾型は6本とも、きれいな形、色が2000年の間残っていたのですから)。私はそんなことを考えています。
 何か、樹液のようなものでも銅戈に塗って、あのように埋蔵するのが一番いい方法だったのではないか・・。
 あの方法は、使わなくなって最後に埋納されたのではなく、いつも、祭りの後、そう言う風に納められていたんじゃないだろうか・・・。
 そして、そのことに、九州型の1本だけが、腐食が激しかったことを考え合わせたら、柳沢に九州型が伝わったとき、まだ、銅戈の持つ意味、正しい保存の仕方、などは伝わってなかったのではないか(だから、腐食してしまった)・・大阪湾型が伝わって始めて、銅戈が、正確に祭器として埋納の方法も含めて伝わったのではないか・・
 実に「非科学的」で、実に素人っぽい、手前勝手な考えであることは承知ですが、なんとなく、そんな「夢想」をしてしまします。
 
ここまで書いてきまして、その後ネット上でいろいろ調べていましたら、こんな記事を見つけました。2007年のものです。
 「11月22日 銅戈の繰り返し埋納か?(読売新聞九州)」
福岡県小郡市の寺福童遺跡の調査で、2004年に銅戈9本が見つかった同じ穴から他の青銅器の破片が出土した。同市教委は、この破片を穴に出し入れする際に破損したほかの銅戈の一部とみており、埋納と掘り出しが繰り返されたものと判断している。繰り返し埋納であるとすれば全国で2例目。他の一例は、北九州市小倉南区の重留遺跡。
  
  私の想像した、埋納は「最初で最後の1回」ではなかったのではないかという考えは、それほど突飛なものではなかったのかも知れません。
  1. 2008/04/09(水) 12:20:12|
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古代の北信濃(7)

では、この柳沢の銅戈は、どこからどんなルートで伝わってきたのでしょうか。

 柳沢遺跡では、これまでのケースと異なり、九州型と、大阪湾型が一緒に見つかっているため、このことを研究するのは、大変重要なことである反面、大変難しい問題のようです。
 シンポジウムでも、時間がなかったせいもあるのですが、「今までの研究では、日本海側を伝わってきたのだろうと考えている」といったような説明にとどまっていました。(私が聞き漏らしていなければ・・・)

 こんな難しい問題を、私のような何も勉強していない「ど素人」が考えても仕方ないのですが、まあ、そこは持ち前の厚かましさで、「ど素人」なりの考えを少し、書いてみようかと思います。
 
 柳沢のことを考える前に、以前から見つかっていた九州型、大阪湾型はどうなのでしょう。
 九州型は直接朝鮮半島から渡ってきたと考えれば、問題ありません。朝鮮半島から直接伝わり、定着した。鋳型も発見されています。 中国地方、四国地方で出ているものも同じ九州型ですから、それが伝わったと考えればいいと思います。
 しかし、大阪湾型はどうでしょう。
 これに関して、ちょこっと調べただけですが、九州型が近畿地方に伝わって、大阪湾型に変化したと考えている方が多いようです。大阪でも、鋳型が見つかっています。
 しかし、その場合、モデルになった九州型が、大阪湾付近のどこかから、1本くらい見つかってもいいような気がしますし、それが全くないというのは、ちょっとふにおちません。
 まだ、見つかってないだけかも知れませんが、その仮説はちょっとおおざっぱすぎます。モデルになった九州型の銅戈は、たぶんきわめて少数だったでしょうから、見つからないというのも、うなずけないこともないのですが・・
 
 大阪湾型のことはひとまず、九州型が大阪型になったと考えるとして、それでは柳沢の場合はどうか・・・
 まず九州型は、九州から日本海経由で上越あたりに伝わり、そこから長野まで来た。
 上越地方で「石戈」が出土していることや、同じ栗林式土器も出土していることを考えれば、上越、北信濃は同じ弥生文化圏だったわけですから、それは、十分あり得る話です。
 昔は、今のように道路があるわけではありませんので、長距離を移動するには、陸路を行くより、海を渡る方がずっと楽だったはずです。
 しかも、日本列島の北側には、対馬海流が日本列島にそって北上しています。これに乗ってしまえば、九州から新潟あたりまでは、寝ててもいけるのではないか・・などと思います。
 
 九州型はこれでいいとして、大阪湾型はどうでしょう。
 近畿地方から柳沢までは、陸路をここまで伝わってきた。まあ、そう考えるのが普通でしょう。
 しかし、それにしては、銅戈が大阪湾周辺から柳沢まで、途中の経路上でどこからも全く出ていないのは、きわめて不自然です。
 ほぼ同時代のものといえる銅鐸は、その経路上の東海地方、松本、塩尻あたり出ているのですから、「銅戈はまだ、見つかっていないのだ」と考えるのも少し無理がありそうな気がします。
 
 九州→柳原はあり得そうなので、逆に、近畿→九州→(日本海)→柳沢という、いわば、近畿から九州への逆輸入ルートはどうでしょう。
 近畿のものが九州に戻り、九州から一緒に来た・・。これも、やっぱり、九州では大阪湾型が見つかっていないのですから、同じ事です。しかも、柳原では、大阪湾型が多いのですから、これはかなり無理があります。
 
 柳沢で銅戈が見つかった当初、それが大阪湾型とわかったときに、「弥生時代にはすでに、近畿地方と、信濃の地で、人物の交流があった証だ」と述べておられる、考古学者もおられたようですが、この銅戈の出現を持ってそのように解釈するのは、私はなんとなく、短絡的なような気がします。
 弥生時代の日本で、近畿地方(それも大阪湾周辺)と柳沢が、間をまったく飛ばして、陸路直接結びつくというのは、何とも、居心地の悪い結論のような気がするからです。
  1. 2008/04/08(火) 09:15:08|
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冬シーズンが終わりました。

今日で、斑尾高原スキー場の営業が終了しました。
雪はまだタップリあるのですが、さすがにここまで暖かくなってしまうと、訪れるスキー客も少なくなるため、終了してしまします。
今シーズン、斑尾にいらしていただいた皆様、本当にありがとうございました。
 
 昨日、今日は、冬シーズン最後のイベント、「斑尾高原スキー大会」でした。私もスタッフの端くれとして、一昨日あたりから、ずっとゲレンデでお手伝い。
幸い好天に恵まれましたので、大会はスムーズに行うことも出来ましたし、出場された選手の皆様にも、レースを楽しんでいただけたと思います。

デュアルレースの一こま
<<昨日のデュアルレースの写真です。相変わらず、下手な写真だなあ・・・・>>

 とはいえ、二日連続の労働、少し疲れました。やっぱり歳ですね。情けないなあ・・・
 そんなことで、今日は、「古代の北信濃」お休みです。そろそろ難しいところまで来てしまったということもありまして、疲れた頭では考えがまとまりませんでした。
 疲れが取れたら、また始めたいと思っております。
  1. 2008/04/06(日) 22:32:01|
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古代の北信濃(6)

前に、「遺物は動く」と書きました。
銅戈が見つかったからと言って、すぐに「だから長野には青銅器の文化があったのだ」と結論づけることはできません。
 どんな形で、どんなところから出土したか。そこに埋まったのはいつ頃のことなのか。そんなことを詳しく調べる必要があるわけです。
 柳沢の銅戈も、それが埋められていた場所をそっくり掘り出して調査されたのもそのためです。
 そしてその結果、これらの銅戈と銅鐸(一部)は、間違いなく、弥生中期後半、ないしは後期始めに、埋められたものだという結論が出ました。
 またさらに重要なのは、どのように埋まっていたかということです。
 まあ、言ってみれば、捨てられて道ばたに落ちていたものが、長い間に土に埋まったのか、それともちゃんと人の手によって、埋められたものかと言ったところでしょうか。前者と後者では、自ずから、そのものの元々の意味や、どういう扱いを受けていたかと言ったことが違ってくるでしょうから。

 柳沢遺跡の銅戈、銅鐸は捨てられたものが埋まっていたのではなくて、丁寧に人の手で埋められていました。(考古学的には「埋納」というそうです) 
 その埋め方は、私のような素人が考えれば、非常に特殊なものでした。
 銅戈は、平らなものです。ですから、まあ、私がそれを埋めるとすれば、穴を掘って、一枚ずつ、ぺたぺたと平たくおいていくだろうと思います。それが一番楽ですし、当たり前だと思います。
 しかし、柳沢の銅戈は違いました。

出土したときの銅戈
<<出土したときの銅戈。小さくてよくわからないのですが、真ん中あたりに、それらしいものが見えませんでしょうか・・・>>

  上の写真は、出土したときの、まだ半分埋まっている状態の写真なのですが、ちょっと小さくて、よくわかりませんね・・・。もっとはっきり写っている写真を見ていただければすぐにわかるのですが、7本の銅戈は、全て刃を立てた状態で埋められていました。説明が難しいのですが、普通にペタンと置いたものを、ぐいと90度刃を起こした状態です。
 7本の銅戈は、それぞれ長さが違うのですが、両端に長いものを、それらの間に短いものを、銅戈の先端の方向を全てそろえ、整然と埋められていました。
 埋められていた穴の中の土を調査した結果、これらの銅戈は、どのようにして埋められたかが、わかりました。
 まず、全部が入る穴を掘ります。その次に銅戈を立てて置くための土のマウンドを作ります。そこに銅戈を刃を立てた状態で置いていきます。その後、銅戈が倒れないように、銅戈と銅戈の間に土を入れていきます。まあ、おおざっぱに言えば、そういうやり方です。
 なぜに、そんな面倒なやり方で埋めたのか・・・。
 この埋め方、私のような素人は、「へ~、なんでわざわざそんな面倒なことを・・・」と驚きますが、実は考古学者の方には、そのこと自体は何の驚きでもなかったのです。
 
 それは、銅戈がこれまで出土した、九州や近畿地区でも、多くがそのような形で埋納されていたからです。
これは銅戈だけではなく、剣や矛などの武器型青銅器の多くが、同じように刃を立てた形で埋納されていたようです。従来から、弥生時代に青銅器文化を持っていたと言われていた地域、そこでの、武器型青銅器の一般的な埋納の方法だったのです。
 何でそういう面倒な埋め方をするか、は又別に調べるとして、ここで重要なことは、柳沢の銅戈は、その意味もわからない人たちが、たまたま持っていたものを埋めただけではないということです。
 ちゃんと、九州などの従来から「銅戈を祭器として使っていた」といわれてきた人たちと同じレベルで、銅戈の埋納の仕方を知っていた訳ですから、当然同じレベルで使っていたと、推測できるからです。
 このことが、この北信濃の弥生時代にも、ちゃんと九州や近畿地方と同じ青銅器の文化があったということを語っているのです。
  1. 2008/04/05(土) 22:13:34|
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古代の北信濃(5)

 銅戈は、大陸、朝鮮半島でも多数出土しています。中国で発生し、それが朝鮮半島を伝わって日本に来たということは定説になっています。

 日本で出土する銅戈は、北九州を中心として中国、四国地方で見られるものと、近畿地方で見つかるものとは、異なる特徴を持っているため、それぞれ、「九州型」、「大阪湾型(淡路島、和歌山でも見つかったので、そう呼ばれているのだと思います)」と分類されています。
 それらは、いずれも、武器として使用された形跡がありません。おそらく、昔は武器だったものが、弥生時代には祭りの時の道具、「祭器」として使われるようになっていったのだろうというのが定説になっています。柳沢遺跡で出土したのも、同じ事が言えます。
 弥生時代は、稲作(水田による。陸稲は縄文時代から栽培されていたのではないかと、最近の研究で考えられるようになったようです)が始まった時代といわれています。銅戈は農耕集落での豊作を祈願する祭りなどで、ありがたい道具として使われたのだろうと思います。

 しかし、ここでも、柳沢遺跡は不思議な特徴を持っています。
それは、出土した銅戈が「九州型」が1本「大阪湾型」が6本、と、どちらのものも混じっていたのです。これまでの発掘では、そのようなことはなかったようです。近畿地方で九州型が出た例はなく、またその逆もないようです。
 全く、初めての例でした。

1号銅戈
<<1号銅戈(九州型、全長34.4cm)

6号銅戈
<<6号銅戈(大阪湾型)

 しかも、写真でわかりますように九州型は、かなり腐植が激しいのに、大阪湾型はまだ、しっかりした形をとどめています。
 これがどのような理由によるのか、展示場におられた学芸員の方に聞いてみたのですが、これまでの研究では、そこまでは、わかっていないのだという答えでした。そして、それを研究することが、この柳沢遺跡の謎を解く大きな鍵になりそうだと、楽しそうに話しておられました。

 発掘現場で最初に見つかったの1本(前に写真を掲載したもの。7号銅戈と呼ばれています)は、大阪湾型だったのですが、出土したときは、きれいな白銅色(ある人は赤銅色とも言っていました)だったそうなのですが、空気に触れている内に、みるみる、写真のような赤さび色に変わっていったと言うことです。
土の中に埋められていた2000年の間は、全く古代の色そのままだったのだろうとのこと。何とも不思議な気がします。

  1. 2008/04/04(金) 12:12:33|
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古代の北信濃(4)

柳沢遺跡での、銅戈の発見がなぜに考古学者達を驚かせたのでしょう。

 日本で出土する青銅器は、銅剣、銅矛、銅戈などの武器型青銅器と、銅鐸の大きく2つに分けられることができると思います。
 それぞれ、元々の使用目的が違うものですし、それぞれの出土分布が特徴を持っているからです。おおざっぱに言えば、武器型は、北九州を中心に分布し、銅鐸は近畿道地方を中心に分布しています。
 銅鐸に関して、東は静岡県あたりまでは比較的多数出土し、さらに東では長野県松本市、塩尻市で、各1個、千葉県で2個、栃木県で1個などの出土があるようですが、武器型の青銅器は近畿地方より東ではほとんど出土していませんでした。銅鐸にしても武器型にしても、東日本では例外的なものにとどまっていました。 
 このため、東日本の弥生文化は、西日本のそれと違い、「青銅器を持たない弥生文化だった」というのが定説だったのです。
 青銅器文化は、弥生時代に大陸から、直接かまたは、朝鮮半島を通って、日本に伝わったものですから、当然、一番近い九州に上陸し、それから東へと伝わってくる。それがある程度文化の進んでいたと思われる(あんまり根拠がないような気がしますが)近畿まであたりで止まってしまうか、せいぜい東海地方止まりになっても、それは仕方がない、といった考え方だったのではないでしょうか。

 「銅戈」もこれまで、北九州、四国、中国地方、大阪を中心とする近畿地方の一部でしか、出土していませんでした。
 それが、なぜか突然、遠く離れた、北信の柳沢遺跡で、大量7本も出土したのです。
 これは、考古学者を驚かすには、十分でした。青銅器文化にたいする定説は覆ってしまったのです。

 しかし、実は、それ以前に長野県には1本、銅戈が存在していました。
大町市平西海ノ口にある上諏訪神社に、昔から保存されていたのだそうです。
この銅戈は江戸時代に見つかったと言われている以外、どこから、どのようにその神社にもたらされたか、記録もないまま、保管されていました。(今は、大町市文化財センターで保管されています)
そのため、研究の対象にならなかったのか、考古学上は「日本の東端の銅戈」と呼ばれることはなかったようです。もちろん、「銅戈の北限」として紹介されている例はありますが。
 確かに、「遺物」は動かせるものですから、どこか遠くで出土したものが、「珍品」として後代になって運ばれてくることもありうるわけですから、今、そこにあるから、昔からそこにあったとは言い切れません。それは仕方のないことです。
 (現に、私が昔発掘作業をしていた「貫の木遺跡」で出土したナイフ型石器1個が、今は、東京国立博物館に収められているようですので、遺物は動きます。(笑)

 しかしその他、長野県では、以前から、石で作った戈、「石戈」が多数出土しています。新潟県、群馬県でも数点、出土しているようです。これが、かなり精巧に銅戈をコピーしたものなのです。
 先日のシンポジウムで「負け惜しみではありませんが」と前置きして「大町のこと、石戈のことなどから考えれば、長野県で銅戈が出ても不思議ではないと言う気持ちはどこかにありました」と、発言された考古学者もいらっしゃいました。半分冗談交じりに。

  1. 2008/04/03(木) 09:10:09|
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古代の北信濃(3)」

今回見つかった、銅戈(どうか)ですが、私には、銅剣、銅矛、銅鐸などはある程度知識があったのですが、銅戈はあまりなじみのないものでした。
 「どこかで見たことはあるけど・・」という程度の知識でした。まず、字が読めなかった。それで、これまで読んだ古代史の本をもう一度、調べてみましたら、確かによく出てきていました。
 しかし、どうも、銅剣、銅矛、銅鐸に比べて印象が薄い・・・。何でかと考えたのですが、要するに字が読めないくらいですから、それがどんなものなのかが字面を見て直感的にわかっていなかったからです。銅鐸は有名ですし、銅剣、銅矛は、字面でだいたいどんなものかわかりますから。

7号銅戈
 <<最初に見つかった銅戈。ガラスケースの中で、酸化防止のために(窒素充填・・・だったかなあ)の袋に入っているため、きれいに写せませんでした>>

 見てのとおり、これは、古代の武器でした。
 長い木の棒にこれを直角に差し込んで結びつけます。
「矛」や「槍」は刃先が棒のさきにまっすぐに付いていますが、「戈」は、この刃先が直角に付く訳です。これでたたくように突き刺して、敵を殺すというわけです。
 なんとなく、石斧がだんだん進化してきたものだというような気がしませんか?短い棒のさきに、石を縛り付けた道具が、戦いの武器になっていくときにこんなふうに発達したのかも知れないと、私は思いました。
 かなり原始的な武器なのだろうと思います。剣や矛とくらべ、どちらが古いのか、考古学的に説明されたものは見たことがないような気がするのですが、私は、こちらの方が古いと思っています。
 なぜなら、この「戈」という文字。実はとてもなじみがあります。それは「戦」という字の旁(つくり)だからです。「たたかい」「いくさ」を表す漢字の旁に使われたもの、やっぱりこれはとても原始的な武器なのだろうと思います。
 これも余談になりますが、おなじく「戈」を旁に持つ漢字で「戟」という字があります。
 「ちょっと刺激が強いなあ」の「刺激」は今「激」の字が使われますが、元々は、「刺戟」と書かれていたようです。「戟」が常用漢字から外れたため、「激」が代用されています。(今でも、この字を使っている方もあるようです)
 この「戟」というのは、「矛」と「戈」が、ミックスされた武器を表す漢字です。
 棒のさきに「矛」が付き、その下に「戈」が付いた、「ト」の字型の柄の長いものといいますか、槍のさきに横にも垂直に刃が付いた武器だったようです。「戈」が少し進化したものだと思います。
 「刺戟」が強ければ、死んでしまいますね。

  1. 2008/04/02(水) 09:21:47|
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古代の北信濃(2)

 柳沢遺跡というのは中野市の最北端、ほとんど飯山市との市境にあり、千曲川のすぐそばです。

 柳澤遺跡
 <<柳沢遺跡の位置。赤い四角の真ん中あたりです>>

 北信地方は、言ってみれば古代遺跡の宝庫で、野尻湖のナウマン象の例を挙げるまでもなく、旧石器時代から、縄文時代、弥生時代、古墳時代、その後の遺跡も数知れず、貴重な埋蔵文化財がこれまでにもたくさん発掘されています。
 特に弥生時代の出土品は大変貴重な、特徴的なものがあるようで、同じ、中野市の「栗林」というところで出土した土器は、その特徴を持つ土器を考古学上「栗林式土器」と分類されるほどのものです。
 この「栗林式土器」は善光寺平から飯山盆地に至る、千曲川沿いの北信一帯、さらには新潟県上越地区で広く出土しているようで、このあたりに弥生時代に同一の文化圏があったことをうかがわせます。この栗林文化が栄えたのは、だいたい紀元元年(西暦0年)を中心に前後200年間くらいだったであろうと推定されています。

 柳沢遺跡も、もちろんこの文化圏の中で、かなり重要な存在だったのではないか。今回の発見は、そんなことを感じさせます。
 
 余談ですが、上信越自動車道の信州中野インターチェンジから新潟県の中郷インターあたりまでの工事は、まさに、古代遺跡を貫くといった感じの工事だったようです。至る所に遺跡が点在しており、工事の前、そこら中で、発掘作業が行われました。
 ちょうど今の野尻湖インターチェンジの場所が「貫の木遺跡」と呼ばれる広大な遺跡で、かくいう私も、オフシーズンのアルバイトで、発掘作業をしておりました。毎日、毎日、しゃがみこんで、地面を掘っていました。
 そこは、旧石器時代(後期・約2万年前)の遺跡で、いろいろな石器が出てきました。新聞紙上を賑わすほどのものを発掘したことはありませんでしたが、黒曜石のいろいろな石器(矢じりや小刀が多かった)や原石がよく見つかりました。
黒曜石は、元々、どこにでもあるものではなく、この地区で出土するものは、長野県の和田峠から切り出され、運ばれたものだという話を聞いたとき、そんな時代から、ちゃんと交易が行われていたんだと言うことに、ちょっとした感銘を受けた記憶があります。
 野尻湖付近の旧石器人がわざわざ和田峠まで黒曜石を求めて探しに行ってたまたま見つけ、持って帰ったとは思えませんから、和田峠あたりの旧石器人が掘り出した石を持ってこのあたりまで「行商」に来たのか、もしくは、和田峠には黒曜石があるというのが、旧石器人の共通の情報だったのだろうと考えたら、20000年間の人間の進歩なんて、たかが知れているような気がしたものです。大袈裟に言えば、やってることがそんなに変わらないような気がして・・
  1. 2008/04/01(火) 10:08:11|
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